日記

戦争と日常

8月6日と9日を実家で迎えると、広島と長崎に落とされた原爆に想いを寄せる比率が高まる。それだけ体と心に余裕があるということか。黙祷を捧げたり、真摯な声に耳を傾けたりすることができるのも、まずは受け止める余白があってからなのだと実感する。

その間に、読書感想文で一悶着。娘が選んだ課題図書のあらすじのなんと書きにくいこと。あらすじをまとめて終わりになってしまう子が多いことを考えると、あらすじを書きやすい、時系列がしっかりしたものや、登場人物がややこしくないものを選んで欲しい。母と私、それぞれの読書感想文にまつわる思い出も挙げながら、ひとしきりわーわー言い合う。

当の娘は、最初に書き上げたものはあらすじに終始してしまっていたが、「感想じゃないよね」と、多少のアドバイスをすると、全部書き直して彼女の感性があらわれた作文を完成させていた。「民は、どんなにアドバイスしても『これでいい!』って言ってきかなかったら進歩してるわ」と母。今の私からしても、こうやって苦しみながらも書き切るのはすごいなあと思う。

細かく見ればもっとよくできるところは無限にあるけど、何も言わない。娘は自分ができたものを気に入って、夕食後には、読書感想文の朗読と『光るとき』の歌唱の二部構成を披露してくれた。我が家の女三代はここ数日、戦争に怒ったり、泣いたり、意見を言い合ったりして過ごしている。「戦争を始められるのに、どうして終わらせ方を知らないの」という作文の一節は本当にその通りだなあと、あらためて胸が痛む。

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